<国家が優先される西洋的価値観>
西洋社会に観るコロナ対応は、先ず政府は「ロックダウン」で全ての動きを止め、市民もそれを受け入れる…そしてある時期ロックダウンを一斉解除する~その後は個人の自由意思に任せ、自分の身は自分で守るという「自由」と「責任」を個人に求める…良い悪いはともかく、そこには西洋型の価値観が反映されている…優先されるのは先ず「国家」であり、政府は国民の安全保障に強い責任を負い、国民はそれに協力する、そしてその前提の元で市民は自由を確保する…つまり市民の自由は無条件では無い、先ずは社会の維持のためには個人の自由や経済活動が制限され、時には個人の生命が犠牲になる事もやむを得ない…個人主義と言われる西洋の価値観には「集団の生命」が何よりも優先される……コロナ禍の社会は混乱して世界中は閉塞し、経済は停滞した…これらはいずれもコロナ禍の現象であり本質はここからは観えて来ない。
<西洋的合理性と日本人?>
島国日本の独特の価値観とは全く違う西洋諸国の価値観は、基本的に陸続きであり、常に戦争により国の存続が危ぶまれてきたという地政学的違いが強く反映していて、ユーラシア大陸の中国もしかりである…個人の自由より社会の破壊を防ぎ、国家を優先する強権的手法が優先される…その一つがロックダウンである…国という社会共同体の維持が何より優先されるのが西洋的価値なのである…そして大運申のスタートの2022年(寅)2月(寅)24日(申)より始まったウクライナ戦争を論じるにあたり、明らかに日本人が感じる違和感は、国家を優先し、個人の死もやむ得ずと、攻防が続くこの戦争…強硬さでは、どちらも譲らないP氏とZ氏は共に火令星人であり、自分の生命どころか、市民の経済活動~生命さえ優先されるモノでは無いというのが両者共通の価値観であり、その様な死生観の国家に生まれた代表者同士である…永い歴史的背景だけでは解けないこの価値観は、西洋と日本の死生観そのものの違いから発生している事が本質では無いだろうか?
<島国が生んだ“曖昧”と言う文化>
日本のコロナ対応は「自粛=お願い」を求めるという責任の所在が曖昧な方法であり、生命を優先するのか?経済を優先させるのか?~未だにこの論争に決着は着かない…マスクを外す事さえ国の指示を待つ国民「右向け右」の中庸的国民…そしてウクライナ戦争への対応も武器は送らず、生活必需品で支援し、同盟国の足並みには従う…強い主張を悪とし「受け入れ文化」が日本流……戦後の民主主義が過度な平等主義を助長し、結果として、いにしえからの日本人独特の「寛容さ」は、形を変え更に曖昧になった……日本人の「曖昧」文化は国や自分を守る術(すべ)武器であり特性であるが、子供が大人の振りを続ければ、やがて真の大人の責任を取らされる……団体的行動を得意とする民族であれば、共栄~共存時代の必須条件が試される時代であり、「実力」と「質」で他を圧倒できなければ、生き残れない時代が到来したと覚悟しなければならない…歴史的に何度も晒された自然の脅威は、あらゆる文化や多様な考えを受け入れると言った、世界に類を見ない「多様性」と「寛容さ」を植え付けた…但し子供のしたたかさだけでは世界に通用する事は難しい時代が「申の大運」~大人の時代である。